2006年11月15日

白石隆之へのインタビューその1

 これから数回に分けて、つい数日前におこなった白石隆之へのインタビューをお届けします。インタビュアーは栗原大さん。実は、今回の白石隆之のアルバムは、そもそも栗原さんが以前やられていたTri-Eightからリリースが予定されていたものでした。それが諸般の事情で頓挫し、僕の手で再び仕切直しをしてリリースにまで漕ぎ着けたというタイトルなのです。なぜ、僕らがこの作品をリリースしたかったのか、その一端がこの長いインタビューから伝われば、そして、白石隆之という人のまだ語られていなかった部分、聴かれていなかった部分が見えてくれば、とても嬉しいです。

B.G.M. / Back Ground Music

――1982年の曲が収録されていますが、これが初めてのリリースだったんですか?
「これはリリースしていない曲だね。初めてリリースしたのは1980年。高校のときに、パンクとかニュー・ウェーヴの流れのなかで生まれた、ヴァニティっていうインディーズのさきがけみたいな感じのレーベルがあって」
――当時はみんなが知っていたようなレーベルなんですか?
「ある程度突っ込んだ感じの音楽をやっていたところなんで、知っている人は知っている、といった感じかな?」
――原さんも知っていました?
原「うん。ロック・マガジンという雑誌がやっていたレーベルだけど、その雑誌はよく読んでいたんだ。白石さんのそのリリースも知っていたよ」
「俺も、その雑誌がきっかけで音楽にハマったという感じかな。今回リリースしていくなかで初めて知ったんだけれど、原くんと俺は同い年で、ともに東京出身なんだ。俺達のような音楽をやっていて、同年代の東京出身者っていうのはそう多くないんだ。同じ景色を見ながら、同じ様な音楽を聴いて育ったという人は周りにあまりいないんだよ」
――その頃はどうやって音楽に接していたんですか?
 「その前も洋楽を聴いたりとか、輸入盤屋へちょこちょこと行ったりはしていたんだけど。ちょうどシスコができてたりした時期で。でも『こういうのが聴きたい』といった指向は明確にはなく、なんとなく買ってチェックしていたというだけだった」
――遊び歩くようにはなっていたんですか?
「東京のニュー・ウェーヴだとかパンクだとかいうシーンには、その当時からは遊びに行ったりはしていたんだけれど、どこへ行っても一番年下だった。クラスにもそういう音楽を聴く人はいなかったし、一人っ子だったから家族から影響を受けることもなかった。とにかく自己探索しているという感じだったね」
――そういう突っ込んだ音楽を好きになっていった理由は何だったんでしょうね?
「きっかけとしては、やっぱり雑誌だったと思うね。そのロック・マガジンが始まる前にも、もっとメジャーな音楽雑誌で『パンクというムーヴメントが起こっている』という情報がチラホラ出始めていたんだ。さっきも言った様に、背伸びしてロックの名盤とかも買ってみたりはしていた。それなりに面白いとは思ったけれど、ただ歴史を確認しているだけという感じがしていて、そこに自分との関係を見いだせなかった。だけどパンクが出てきてから、なんだか判らないけれどもすごく気になってきてしまった。もちろん音は聴いたことがなかったから、ヴィジュアル的な部分が最初のインパクトではあるんだけれど。とにかく、ラフで粗いものが自分のなかに強く入ってきた。当時、新宿の2丁目に近い辺り、3丁目くらいだったんだろうか、その辺りにシスコができた。店員のお姉さんがパンクにとても詳しくて、その人がレコードをたくさん仕入れていてとても充実していた。俺は、学校が終わればなにかにつけて通っていたという感じだった。当時は7インチ中心だったんだけれど、それを何だかよくわからないままに買っていた。とりあえず出たものを買わなくてはいけないという、勝手な使命感みたいなものを抱きながらね。そこにロック・マガジンも置いてあって、パラパラと見たあとに買ってみた。音楽的に面白かったのかどうかもよく判らなかったんだけれど、荒々しい録音の感じに惹かれていた。ハウリングを起こしたままブチッと終わってしまったりと、その生々しさに衝撃を受けていた」
――当時の東京のシーンは、ご自身にはどのように映っていたんですか?
「パンクが盛り上がっていたときって、日本ではポパイが創刊されたり、ウェスト・コーストのサーファーがブームになったりといった頃だったからね。でも、そのポパイでも『ロンドン特集』とかいってパンクが取り上げられた事があったよ。向こうで起こっているなにか新しいものとして、ファッション業界の人間や編集者はある程度パンクを気にしていた様だね。中でも早かったのが中西俊夫や佐藤チカらプラスチックス辺りで、そういう一部の新しいものに敏感な人達が、パンクを日本へ<輸入>してきている感じだった。それとは別に、東京ロッカーズのように、高円寺等中央線沿線の人間臭い感じのものとのふたつが同時進行していた感じだった」
原「さらに吉祥寺まで行くともっとマイナーな感じになっていって、ドロドロなフリー・ジャズ、フリー・インプロヴィゼーションの世界になっていって。その名も<マイナー>というハコには灰野敬二や白石民生らが出演していたんだけど、そこにはECDも客として出入りしていたという話だし」
「吉祥寺マイナーは極北の世界で、パンクとリンクはしているんだけれど、本当にドロドロの、独特の雰囲気だった。ECDのことは俺も見かけたことがあったよ。彼がキラキラ社っていう劇団に所属していたときだよ。なんとなく覚えているんだよな。おそらく、原くんとも当時は近いところに居合わせていたんだと思う」
――白石さんは、そのどちらに属していたんですか?
「どっちというわけでもないね。東京では、原宿系と中央線沿線系とに完全に両極に振れすぎていて、どっちに対しても分かる部分はあったし、顔を出したりはしてたけど属してはいない。バンドとしてはフリクションは好きだったな。もっと音楽自体に触れていたいというのがあったんだ」
――そうやって音楽的な部分でリーダーシップを発揮していた人、白石さんにとって指針となった人はいるんですか?
「それが正しい選択だったのかどうかは判らないけれど、俺にとってのきっかけは、編集長の阿木譲の妄想で出来上がったようなその雑誌、ロック・マガジンだった。ロック・マガジンという名ではあるんだけれど、ジャーマン・ロックやブライアン・イーノなんかを日本でいち早く紹介していた。実際にイーノのインタヴューも取っていたりして。彼がロックから離れて行ってアンビエントやオブスキュアを始めるのと連動して、彼は全編現代音楽ばかりの別冊を作ってしまったりして。それをなぞっていくかたちで、俺の音楽の聴き方の枠も極端に広がっていった」
――そんななかで白石さんが1980年にリリースすることになった最初の作品(B.G.M.『Back Ground Music』)というのは、どんな内容だったんですか?
「実は、この『TIME6328』の10曲目でも使っているんだよ。そのまま使うことはしたくなかったんで、そのレコードを擦ってエフェクトをかけたりしてあるんだ。そのレコード自体は、自分の思ったようには作れたものではなかった。ドラムやギターを演奏する人達を友達のなかから選んで連れて来て、こうやって欲しいというように指図しながら1日で録音したんだ。でも彼らも人間だから、自分の思った様には相手に伝わらなかったし、彼らからその部分を引き出す人間的な力も自分にはなかった。自分のなかでのその反省点が大きかったので、自宅録音の出来る環境を作ろうと思って、機材を買ってやり始めた」
――そのままパンク・シーンのなかで動いていらっしゃったんですか?
「パンクやポスト・パンクの尖った部分は1981, 82年くらいから収束していって、80年代は自分にとって行き場のない感じだった。引き続きリリースされていたレコードも買ってはいたんだけれど、リアルタイムな影響はそこで切れてしまった感じだった。その代わり、聴く分野が広がった。80年代は自分にとって空白の期間だったけれど、そうやってとにかく聴き漁っていた感じだった。今になってみると、逆にそれが良かったのかなとも思っているけど」


posted by 原 雅明 at 12:01| Comment(1) | TrackBack(1) | music | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
近年は気にする人は少なくなったようですが、相手が昔気質の人である場合は、特に注意したほうがいいでしょう。
Posted by パネライスーパーコピー at 2013年06月20日 16:38
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中西俊夫
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