2006年11月16日

白石隆之へのインタビューその2

Takayuki Shiraishi / Photon

――次に自分のなかで音楽的な盛り上がりが来たのはいつの頃ですか?
「80年代終盤のアシッド・ハウス。そこで自分のなかが切り替わる感じがした。その前にハウスという言葉自体は耳にはしていたものの、その言葉の意味があまりにも曖昧で理解出来なくて。でも一応80年代後半から気にはなっていたところにアシッド・ハウスという言葉がでてきて、なんとなく判ってきたんだけど、さらなる疑問も沸々と湧いてきた。なぜこんなドライな音なのか。ドラム・マシンが素の音で鳴って、展開もなく垂れ流しになっているのはなぜなのか、と。全くエフェクトがかかっていない音というその意味が、さっぱり理解できなかった。当時はアート・オブ・ノイズとかの、派手なゲート・リバーヴのドラムの音なんかがオーヴァー・グラウンドでは主流だったから。それとは真逆の、ものすごく貧しい音で。なぜゴージャスにしないのか、あえてしていないとしたらその理由は何なのか。そういうことがとても疑問だった。とにかくひとりで聴きながら、その謎を解こうと必死だった」
――デトロイトへ傾倒していったのは?
「アシッド・ハウスの303の音なんかにも、以前に自分が聴いていたジャーマン・ロックやジャーマン・ニューウェーブと共通する感じがあると思っていたのだけれど、ハウスの流れでたまたま買ったデトロイト・テクノのなかにもそういう匂いがある気がした。それからしばらくして、ジャーマン・ニューウェーブのリエゾン・ダンジェルースをサンプルしているカール・クレイグの作品と出会って。それを聴いて、自分のなかで<流れ>がはっきりした」
――白石さんのなかでのその<流れ>というのはどんなものですか?
「デトロイト・テクノといえば黒人によるものじゃない?自分のなかではリエゾン・ダンジェルースはとてもヨーロッパ的なもので、まさか黒人が聴いているとは思っていなかった。リエゾン・ダンジェルース自体はビートの刻みが細かくて、彼らはファンクやディスコなどの黒人音楽も聴いているんだろうな、というのはあったんだけれど。彼らはそれを無理矢理ヨーロッパ的なところへ引き込んでいる感じのバンドだったんだ。それほど有名ではなかったけれど、自分は大好きで、それこそ本当に1日中聴いていたレコードだった。それをデトロイトの黒人が聴いていたということに驚いた。もちろん、以前にバンバータがクラフトワークをサンプルするようなこともあったんだけれど、それよりもさらにピンポイントなリンクでショックだったな。それで、自分のなかで80年代初頭と終わりが繋がった」
――模倣が、ルーツの段階に立ち戻ってさらに模倣されている感じですね?
「自分が好きで聴いていた80年前後のポスト・パンクというのは、黒人音楽の影響を自己流に解釈して取り込んだ音楽だったという印象がある。例えばポップ・グループは、フリー・ジャズとダブを混ぜ合わせていたし、PILは、ノイやカンなんかにダブを注入していた。トーキング・ヘッズは、アフロを白人的解釈で無理矢理引き寄せていた様なものだった。それが今度は、リエゾン・ダンジェルースをサンプリングしている黒人が現れて、黒人が白人のエレクトロニック・ミュージックを自己流に解釈した音楽が生まれて来ていた。音楽は自由だなと思ったし、そのインパクトが自分のなかでとても強くて、意識もそこでガラッと変わって行ったね。そんなわけで空白の期間が見事に埋まって、そこから一気にテクノを聴くようになった。当時は試聴もできなかったから、投資するような感じでレコードを買っていった。『とにかくこの音楽を自分のなかに注入しよう』という意識で」
――それまではライヴ・ハウスへ通ったりしていたわけですが、初めてクラブ的な場へ赴いたときはいかがでしたか?
「クラブへ行ってあの無機質な素の音は、大きな音でかけて初めて効果があることを知った。『なるほど!』という感じだった。<体験>としての音楽というか。それまではレコードとライヴが音楽へ接する主な手段であったけれど、それよりも<体験>というか、音を手で触るような感覚。音楽へのこういう関わり方が、本来のかたちなのかなと思った。あと、以前に聴いていたジャーマン・ロックを好きだった理由が、逆にクラブへ行くことではっきりした。片面いっぱいにビートが続いている様な音楽は、好きではあったもののその理由までは自分のなかで解けていなかったのだけど、クラブへ行ったことによって判ったよ。音楽に没頭して踊っていると同時に、頭のなかではいろいろな考えが巡ってクリアになっていく感覚だった。自分のなかだけで結びついていた音楽の流れに、今度ははっきりとした意味が出てきたという感じで。だから、クラブへ通ったことは自分のなかではとても大きな出来事だったと思う」
――テクノにのめり込んでいた期間はその後も続いていたんですか?
「いや、自分がその一部だという意識があったのは90年代中頃までだね。自分もムーヴメントの一部でありたいという思いは90年代前半まではあったんだけれど、それが90年代中頃から変化していった。音楽のかたちが決まって窮屈になってきていたんだ。それ以前の音楽体験がいろいろとあったこともあって、もっと広いところへ行きたいという気持ちが出て来ていた」


posted by 原 雅明 at 03:10| Comment(0) | TrackBack(0) | music | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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