2007年07月04日

reflection interview その3

――では、リフレクションの今後について伺います。今回の作品は、ご兄弟の共同作品として制作されましたが。

「現在はそれぞれ別々に作っている状態です。今回の作品を出したからと言って、今後すぐにふたりで再開することはないでしょうね」

――とするならば、谷口一郎さんは、どうしていきたいと考えますか。

「実は、今回のアルバムでも使った機材のほとんどは処分してしまったんです。経済的事情ですね。ただ、生録用の機材は増えていて、新たに制作機材を見つめ直しながらレン(小型のゴング)の一発録りをやったりしまして、アルバムの体裁としてはもう出来ています。マルチ・トラックも使わずに限りなくインプロに近いものですから、特に人前に出そうとか、そういうレベルのものではないのですが。
 さらにもうひとつは、近々あるライヴのために新たに制作環境を作っているので、リフレクションでやってきたことを敢えて初心に戻し、そこから発展させていくのもありかなと。こればっかりは、ライヴをやってみないとわからない部分ではあるのですが。幸い、仕事で機材関係のことをやっているので、それを活かしてソフトと<を>作ってみることも考えています」

――シーケンサー・ソフトを自分で作るということですか!

「そうです。音楽をやっていて行き詰ることのひとつに、テクノロジーの問題があります。現状の音楽制作は、多くの部分でソフトに左右される部分が多く、誰かが作ったソフトに依存している状態です。予算を割き、多くの人員を投入し、時間も使って作ったソフトは便利です。機能もたくさんついている。しかし、多少機能が少なくても手作りのソフトだったら、個性も反映しやすい。また、至らない部分も納得出来、テクノロジー的な閉塞感も突破出来るのではないかと」

――なるほど。しかし、そのようなことを考える人は少ないですよね。

「ええ、テクノロジーが発達した状況下ですと、誰が作っているのかわからないという問題があるように思いますし、下手な話、ボタンひとつ押すだけでフレーズが出来てしまいます。……自分が音楽を作っていく上での一番面白い部分ですよね。苦労して一から作り上げていく醍醐味――というのが削がれてしまいがちです」

――では、谷口さんにとって、いまも興味深い音楽など。あれば伺えますか?

「たまに聴くとしたら、昔から愛聴しているものに限られますね。……ギャヴィン・ブライアーズですとか、ジャズなんかだとジョン・ヘンダーソン。本当に4〜5枚なんです」

――最後の質問です。川崎での生活を経て、現在は千葉県・外房の暮らしを営んでおられますが、谷口さんにとって、そこでの暮らしはどんなものと考えていますか?

「川崎には長いこと住んでいましたが、ここでの暮らしは作っていく音楽も含めて、これからの生活を実現する上で、必要なことなのかなと。都会での生活って間接的ですよね。食べるものにしても、誰かが工場で作ったものだったりしますし、そうではなく、もっとダイレクトに感じていきたい。畑仕事などもやったりしているのですが、自分で食べるものは自分で作る。都会で暮らしていると、自分は人間なのに人間を知らないということが起こりがちです。そうではなく、根本的なところで、この世界で自分が何を感じられるのかと。感性を研いでいくというか、ここでそういうことを実践していけたらいいなと考えています。あと何年かやってみて、結果、どんなことがやれるのか」

――「生きた心地がしない」という感覚は、僕も含めて感じているひとは多いと考えます。例えば、四六時中、みんなは携帯電話でメールを打ったりネットを見たりしていますが、誰と繋がろうとしているかと思います。ありていな、デジタルが嘘のコミュニケーションという話ではなく……僕は独りで食事に行くことが多いのですが、同じように食事をしているひとは、能面のような顔で携帯見ているんですね。奇妙を通り越して、たまに荒涼とした感覚に囚われることがあります。

「携帯については、僕もこっちに働きに出て来て、『慣れないな』と感じました。ただ、いまの子供たちはそういう環境が当たり前であり、これからどうなっていくんだろうかと思います。……音楽におけるハイ・テクノロジー化もそうでしょうが、人間の感性を限定する方向に向かっているようで」

――ならば、そのような状況から反作用的に音楽を作っていくことは可能で、単に綺麗な音楽であるとかではなく、社会的な強度を持つことも出来るでしょうね。

「だからこそ、感覚は鋭敏に保っておかなければならない。今回のアルバムはいまの社会を僕なりに見つめた――反作用的な作品だと思うんです。そして、これから作る作品に関しては、ここでの生活を見つめたものになっていくはずです」


<あとがき……にしては長い>
 アルバム『music bizarreness』をまったく予期しないタイミングでリリースすることになった谷口一郎さんは、作品を3年と少し眠らせていた一端について、自筆ライナー・ノーツでこう述べている。「正直なところ、CDなどリリースしたところで、今の商業主義全盛の世の中では、曲解された形でしか聴き手には届かないだろうから、現行システム(現代の音楽消費文化)に基礎を置く『音楽活動』はせいぜいのところ無駄か、場合によっては積極的な害すら伴うように感じ続けていた」と。
 実直な感想だ。同じことを感じているひとは多いだろう。しかし、音楽産業における商業性というのは、僕が見る限りインディペンデントな運営は厳しくなっているのは当然として、それ程変わっていないというのが僕の見方だ。変わったのはむしろ、ネット以降のコミュニケーションというか、ノリだろう。ネットの登場により、いとも簡単に検索が可能になったジャンルもの。以降では文脈と述べるが、それらの掛け合わせと共有体験をベースにしたコミュニティが、かつてない程幅を利かせる中(ここまでとは僕自身も予想しなかった)、例えば外側にいるひとが何かを問うことは、とかく損な役回りになりつつある。極端な書き方ではあるけど、コミュニティにおけるゲーム性を踏まえていなければ、何をやっていようがダメ。コミュニティからの要請を汲めないと、ダメ。このことは、本ブログでジム・オルークさんの発言を引用する形で原さんも触れているけど、一度ゲームからはじき出されたひとの間からも感情的な形で発せられている。若い子たちがコミュニティに向かう理由には、ネット依存という社会環境、あるいはナマの生活空間が削がれていった果てで求めている節もあるろうし、一概に批判する気にはなれないけど、本題からは逸れるので割愛する。
 ただその一方、自分の行動や創作活動や言論、それらがどのような結末を迎えるにしろ、例えゲームのような音楽マーケットを彼方に見据えているにしろ、谷口さんはこの世界に足跡を刻むことをためらう必要はなかった。いや、ためらったからこそ、誰にとっても予期しない発表タイミングになったわけだから、必要はあったのかもしれないが、これからは思慮深くあってもどうかためらわないで欲しい。そうだ、自分の行動がどのような結末を迎えるのであれ、やりたいと考えたことは貫くべきであり、その透徹な意志こそが、作品を通過した瞬間に受け手の感受性を刺激するのだから。
 『music bizarreness』は、ライナーでも触れられている通り、現在の東京が氷解させたとも言うべき――リフクレションによる川崎時代の記憶が結晶化されている。谷口一郎さんは川崎生活の末期を指して、音楽制作にもニュアンスがまたがった書き方なのかもしれないが、「自分が信じ、かつ理解していたつもりのものが〜次々と崩壊していくのを感じ」と述べている。以後谷口さんが、外房の田園に移住したことも踏まえ、崩壊していったものは音楽のみではないと推察して書くが、例えば再開発著しい現在の東京を眺めるにつけ、僕の中でも「信じていたはず」のものが次々と崩壊している。生活空間と呼べた街並みは切り崩され、テナント・ビルに新築されていく。安心、安全、快適というモラル・マジョリティを背景に、都市部の街並みはどこに行っても変わりばえのない無味無臭のものに仕立て上げられていく。働く人間は社畜生活を余儀なくされ、「いまが頑張りどき」と言っては精神を病み、自由競争のステージから退場していく。仕事のない人間は世間から落伍者の烙印を押され、日銭を稼ぐために職場を転々としていく。彼らにも信ずるところはあって、ひとに頼ることも出来ず、「迷惑をかけてはならない」と言っては自責のサイクルの中で苦しみ抜く。かりそめの地位を得た人間たちは、彼らを「努力が足りない」と言っては嗤い、あるいは無関心を装う。谷口さんは、そんな都会を指して「終末的な予感めいたものが」と表現する。この眼差しは、谷口さんにとって了解し難いものに対する反作用を生み、作品を単に「きれい」で「叙情的」な音楽に押しとどめないものにもしている。結果このアルバムは、インストゥルメンタル作品ではありながらも社会性という名の強度を得ていることを強調しておきたい。
 社会性という強度は、リフレクションの音楽が思い起こさせるインテリジェント・テクノ、アブストラクト・テクノといった文脈への決着という意味でも機能している。90年代末の、エレクトロニカ・ムーヴメントにおける半ば踏み台になった感もあるこの文脈は、元々機能性と合理性を強めていくばかりだった本流テクノへのアンチテーゼとして注目されたものだった。谷口さんはいまも変わらないフェイヴァリットにギャヴィン・ブライアーズを挙げているが、そのせいか、作品にはかつてのリスニング・テクノには見られない複雑でユニークなテクスチャーの揺れ動きが見られる。まるでスペクトル光が伸縮し、次々と形を変えるトーンと同じように、ドラム・ブレイクも変化を止めることがない。そういう光の伸縮が、谷口さんへインタビューをしたせいだろうか、僕には、いまや微かに残るだけとなった都市における希望の余地に思えてならない。そしてそのこと自体は、リフクレションが駆け抜けていた90年代以上に、尊いものであるように感じる。少なくとも僕にとってはそうであり、『music bizarreness』はすでに何度聴いたかどうかもわからない。

(インタビュー・文: 岡本俊浩)


posted by 原 雅明 at 05:15| Comment(2) | TrackBack(0) | music | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
このインタビュー、すっごく面白かったです。
特に新奇な言葉が並んでいるわけでは無いのに、不思議とリアルで深く響きました。
私はアプリケーションのベンダーで働いているんですが、選択肢が増えているはずなのに選択する事は減っているフィーリングは音楽だけでなく色々なところで感じます。

gHt
Posted by gHt at 2007年07月05日 23:31
リアクションありがとうございます。
谷口さんのソフト制作は着々と進んでいるようです。よかったら、16日、遊びにいらしてください!
Posted by hara at 2007年07月06日 15:57
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