2007年09月26日

……。

 週明けまで熱で再度ダウン。大宮にも行けず、原稿はたまりにたまり(申し訳ない>関係各所)、相当に追いつめられております。あとインタビューのまとめ2本に、ライナー2本、3000字ほどの原稿が1本を今月中でしたか……。

 何を書いても話がまとまりそうもないので、ひとまず、気分転換に(?)、店主も話題にしていたエチオジャズのMulatu Astatkeの謎のビデオクリップ(?)でも貼り付けておきます。



 Mulatu Astatkeはジャームッシュの『Broken Flowers』という映画で大々的にフィーチャーされていたんですが(というか、相変わらず、この音楽を鳴り響かせたくて撮ったような映画だったんですが)、ジャームッシュの映画も自分の中で昔とは随分受け止める印象が違ってきました。そのままそこに孤独に存在していていいような映画というか、ある種のドロップアウトした映画というか、その希薄な有り様が、音楽のいまだタイトなルールに縛られた世界と対比させると興味深くもあるのです。

 昔、カイエ・ドゥ・シネマ・ジャポンという映画雑誌にジャームッシュの『Ghost Dog』について書いた文章も貼り付けておきます。興味がある方は続きをどうぞ。

 ジム・ジャームッシュの『ゴースト・ドッグ』は、ウータン・クランのRZAが全編に渡って音楽を付けている。RZAといえば、かつて、映画版『子連れ狼』の効果音をサンプリングして、レコードからのフレーズ・サンプリングを繰り返していたヒップホップの世界に、殺伐としたサウンドスケープに包まれた近未来的なストーリーをもたらしてみせた。RZAのオーディオ・コラージュ的なプロダクションは、同時期にギャング・スターでプレミアが行った、ネタを細かく切り刻み、プレーズもビートもサンプラーの中で再構築してしまうミニマリズムの手法と好対照をなした。この二人が作り出したプロダクションが、90年代のヒップホップのサウンドの方向性を大きく決定づけたと言っても過言ではない。結果として、片や、サンプリングのネタとなるべき対象を映画やTVの効果音や日常の環境音、あるいは自らが演奏する楽器音にまで広げ、片や、サンプリングの機能的な限界を越えるようにプログラミングの精度を上げ、さらにコンピュータによるシーケンスの組立へと移行することに拍車をかけたのだ。
 『ゴースト・ドッグ』のサウンドトラックは、RZAがまるでかつての自分のプロダクションへと遡行していくような印象を与える。実際、昨年、ボビー・デジタル名義で作った、野心的に装飾を施されていたソロ・アルバムよりも、このサウンドトラックの方が、遙かにRZAが本来持っている世界観をストレートに反映している。いまでは、本人が進化という言葉とともに葬ろうとしているかに見える、かつての粗く不安感をかき立てるようなテクスチャーが、ここでは再び正面から顧みられているのだ。それは、RZAがプロデュースをした、最近のウータン・クルーのトラックなどでもほとんど聴くことができない内省的な響きも生んでいる。そんなRZAの姿は、ジャームッシュが迂回をしながらヒップホップへと至ったことと何か関係がありそうでもあって、いろいろと興味深く映る。
 70年代のヴェンダースや80年代のジャームッシュは、音楽によって導かれるような映画ばかりを撮っていた。それらは、単に音楽が大きな役割を果たしているというようなものではなく、もはや音楽だけが映画を物語ることができるのだと言わんばかりの作りだった。ひとつの音楽をフルに鳴り響かせるために、ひたすらカメラを回し続ける、そんな撮り方をしていた。そして、彼らは、ロックンロールが持つひたすら緩徐な時間を映像を通して蘇生しようとした。しかし、ある時点で、もっと展開が早く複数の音楽を巧妙にミックスするような感覚をもった映画=音楽の登場によって、実にあっさりと凌駕されてしまったのだ。そのミックス感覚は、例えば、クエンティン・タランティーノ的なモンド/ラウンジ感というものに象徴されていた。
 このモンド/ラウンジ感は、ヒップホップのネタ掘りから始まり、過去の音源の再発見と再加工を繰り返した80年代後半以降のビート・オリエンテッドな音楽が行き着いたひとつのデッドエンドである。限りあるリソースの中で、まるで無限に続くループのように巧妙に繰り返されたヴァーチャルな感覚こそが、モンド/ラウンジ感だった。それは、いま現在行われている音楽の更新作業の本質を曖昧にしてしまうものだ。しかし、モンド/ラウンジ感が蔓延し尽くした90年代後半に至り、そのループを断ち切るようにビートが組み立てられ始める状況が一方では生まれてきた。
 ターンテーブルやビート・ボックス、あるいはシンセサイザーといった機能的な装置を使って、半ば偶発的に反復音楽が作り出されてから、ほぼ20年くらいの歳月が経つ。70年代後半から80年代初頭に発見/発明され、その時、ヒップホップ、ハウス、テクノと大雑把に命名された、それらの音楽フォームは、80年代の半ばにはスタンダードなスタイルを作り上げた。そして、その後は、フォームを更新しようとする志向と、ルールを形成していこうとする志向とが常にせめぎ合い、不可避的にさまざまなサブ・ジャンルへと分岐していった。エレクトロ、アシッド、ミニマル、インテリジェント、アンビエント……形容はどうあれ、分岐を繰り返すたびに、フォームの更新はより微細なレベルの差異の問題になり、ルールはよりタイトな様相を見せるようになった。
 そうして、それらの音楽は、90年代に入るとマナーの問題を浮き彫りにした。タイトなルールの中にあって、フォームを覆すこと。このマナーを身につけることが、90年代に登場した音楽の在り方を決定づけた。タイトなルールは、あらゆるフォームの音楽に存在する。ロックンロールにもスウィング・ジャズにも存在した。それならば、数十年に渡るフォームの更新を経て、パンクやフリー・ジャズはそのルールを覆したことになるのだろうか。いまとなっては、それらはルールを覆したのではなく、新たにルールをもうひとつ作り上げてしまったという方が正しい。パンクもフリー・ジャズも、革新的なフォームなど存在しえないというニヒリズムと、フォームを覆すことの快楽とが分離してしまった時点で、袋小路に陥ることになった。
 自らルールを作り上げて1人勝ちすることの退屈を、90年代の音楽は無意識の内に排除しようとしてきたのだともいえるだろう。ジャングル〜ドラムンベースの登場によって、コンピュータ上での、より細かなプログラミングの追求は加速したが、それは、ビートを細分化させるとともに、モンド/ラウンジ感がもたらすような無限に続くループに楔を打ち込み、ビートを分断し、変形することを可能にした。そのプロセスは、単にビートに複雑な構造をもたらすだけではなく、上モノ(メロディ)を作ることと、ビート(リズム)を作ることの間にある境界をますます曖昧なものにしていっている。プレミアがこだわったチョップとフリップはさらに細かくなり、自ずとメロディはメロディ未満のようなものとしてビートとともに鳴り響いている。
 ジャームッシュとRZAが暗黙の内に一致点を見出せたとしたのなら、それは、この細切れのビート以降の映画=音楽のマナーのように思えて仕方がない。『ゴースト・ドッグ』のシンプルで粗いビートの背後からは、巧妙なミックス感覚を逃れて、緩徐な時間が再び蘇生されてくるのだろうか。そういう兆しを感じさせる瞬間は、何度となく映画の中には登場する。盗難車のカー・ステレオに丁寧にCDをセットし、予め決めたトラックを再生するゴースト・ドッグの姿は、まるで、再び律儀に音楽と向かい合い始めた新しいリスニング志向の気分を映し出しているようだった。それは、映像とリンクしてメガミックスされた音楽では不十分な気分であり、かといって、かつてのロードムービーのようにラジオのスイッチをひねって流れる音楽ではもはや代弁することができない気分なのだ。
 いずれにせよ、『ゴースト・ドッグ』のRZAは最近になく本気だった。それは、映画とともにあったからこそ生まれたものだと思うのだが、そのことはまた機会を改めて更に考えてみたい。


posted by 原 雅明 at 18:15| Comment(0) | TrackBack(0) | music | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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